国宝松江城を中心とした神社・寺・修験道・慰霊碑などの歴史的建造物を主眼に、松江のために尽力された人達
または尽力されている人達の過去から現在にいたる人間ドラマを、鎮魂の祈りと共に独自の視点で紹介します。
そして松江を「祈りの古里」として確立し、未来に貢献したいという思いを込めた内容にしていきます。
〒690-0887 島根県松江市殿町1-5
TEL:0852-21-4030
https://www.matsue-castle.jp/
国宝「松江城」は、1607年(慶長12年)に堀尾吉晴によって築城が開始され、1611年(慶長16年)に完成しました。別名「千鳥城」と呼ばれ、千鳥が羽を広げたような曲線の屋根を「入母屋破風」と言い、それが東西南北の四方に乗っていることが由来とされています。
その後、堀尾吉晴の孫、忠晴が初代城主となり、京極氏、松平氏へと松江城の歴史を繋いでいきます。明治時代、「廃城令」によって全国のほとんどの城が取り壊され、松江城天守は売却される予定でした。その窮地を救ったのが、豪農家・勝部本右衛門親子や旧藩士・高木権八ら地元の有志です。自らの私財を投じて天守を買戻し、松江城を見事に守りました。その後、市民からの寄付によって松江城天守の大修理が行われ、現在に至ります。
堀尾吉晴は、息子の忠氏の遺志を継いで慶長12年(1607年)に今の場所亀田に松江城の築城を開始しました。工事は順調に進みましたが、とある場所の石垣が積んでも積んでも翌朝には崩れてしまい困っていたところ、ある霊能者が現れ「嫁入り前の若い娘を人柱にすれば、石垣をうまく積み上げることができる」と予言しました。
その霊能者は「全国を放浪している山伏に任せろ」と「人柱になる娘は、盆踊りをしている中から選べ」と重ねて伝えると、堀尾吉晴は人柱に反対だったので、家老達が内密に盆踊りを企画しました。家老達は盆踊りをしている娘を物色しながら「盆歌を凛とした声で歌い上げ踊っている大変美しい娘」がいることに気が付きました。
その娘は白潟に住む船団頭の娘「小鶴」で、同じく一緒に踊っていた若い男は、秋鹿郡に住む船頭の松吉です。小鶴と松吉は祝言の約束をしており、二人は未来を信じて楽しそうに盆踊りを踊っていました。翌朝、城から使いがやってきて小鶴の両親に会い「お城で行儀見習いの修行をされたらどうか」と話を持ち掛けると両親は承諾し、小鶴は行儀見習いのため城に住むようになります。
しかし城では、毎日ご馳走が出され至れり尽くせりの歓待で、行儀見習いの修行などは一向に行われませんでした。娘が不審に思い「私は行儀見習いのためにお城に上がりました、ご馳走を食べるために来たのではありません」と言い出すと、慌てた家老達は、城にいた放浪山伏に命じて縦穴を掘らせ、ある闇夜に娘を連れ出し生き埋めにしました。山伏達はその夜松江を離れて行方知れずとなります。
その娘「小鶴さん」の生き埋め人柱で、石垣が無事に積み上げられ松江城は完成しますが、程なくして堀尾吉晴は亡くなります。これ以後当主は皆早死にします。堀尾忠氏(28歳没)の長男で堀尾忠晴は35歳で亡くなり、堀尾家は断絶します。その後、京極忠高が城主となりますが45歳で急死し、同じく世継ぎがいなかったので断絶します。二代に渡る領主断絶は「小鶴さんの祟り」と言われるようになりました。
寛永15年(1638年)4月13日徳川家康の孫である松平直政が城主になります。幼少期から育てられていた影武者も一緒にいます。ある日の夜、松平直政が天守閣に登った時、美人の妖怪が現れ「このしろは私の城だ、すぐに立ち去れ、立ち去らないと命を取るぞ」と言い残して立ち去ります。直政が天守閣から降りて影武者にそのことを伝えると「今夜は私が登ります」と言いその夜、影武者が天守閣に登ります。妖怪が現れると影武者は「このしろはあなたに差し上げます」と約束をして天守閣から降りてきます。
次の日も影武者が天守閣に登り待っていると、妖怪が現れ「このしろは私の城だ」と言ってきたので、三宝に魚の「このしろ」三匹丁重に熨斗紙に包み「このしろをあなたに差し上げます、どうぞお受け取りください」と言って差し出します。すると妖怪は怒り狂って「騙したな、この私を、許さんぞ」と迫ってきます。影武者は「日本には、古来から言霊があります、あなたがこのしろとおっしゃったので、私はこのしろを持ってきました、あなたは古来からある言霊を否定するのですか?」と説き伏せにかかると妖怪は「よかろう、このしろは私がいただく、ただし三つの約束を果たすなら、二度と天守閣には現れない」と言って影武者と約束を交わします。
三つの約束とは
① 松江の街では盆踊りをしない
② お城内では飲み食いしない
③ このしろ(コハダという寿司ネタ)を食べない
という内容でした。この三つの約束を守ったので、松平直正の世は長く安泰でした。
翌朝、影武者が天守閣から降りて来ないのを案じて直政が登ってみると、そこには大きな狐が横たわっていました。「私を守ってくれたのは狐だったのか」と驚きながらもその狐を抱きしめます。
数日後、狐は自分の使命を果たして静かに息を引き取ります。直政はその狐の姿を石で刻み、稲荷神社に安置しました。小泉八雲の稲荷神社で最もお気に入りな狐像が、この直政を救った狐であることも有名な話です。
以上これが松江に伝わる口伝です。
400年間、松江生まれの山伏は存在しませんでしたが現在、松江出身の山伏が三人おられます。天守閣の妖怪はもう出ませんが「小鶴さんの呪い」は400年経った今でも続いてるそうです。その呪いを解くには、松江の山伏三人と本山の山伏と合同で「小鶴さんの護摩供養」を厳粛に行う必要があるそうです。
松江の山伏達は、松江の盆踊りが盛大に復活し松江が大いに発展することを願い、日々鎮魂の祈りを捧げながら活動されています。三人の山伏のうち二人は御年87歳で頑張っておられます。実際に松江市の旧市街地では、盆踊りをしませんし、宍道湖にたくさん生息していますが「このしろ」という魚を食べません。今後も独自の視点で検証していこうと思います。
もしこの呪いが実在して、本当にそれが解けるなら松江人が「このしろ」を食す時が来るやもしれません。今後も山伏達の活動を応援しながら、見守って参ります。
最後に、この山伏達の活動に対して松浦前市長が見解を述べられていますので、抜粋して紹介させていただきます。
今回いただいた言い伝えは、松江市内に古くから語り継がれてきたものや「雲陽秘事記」の様な書物として今に伝えられているところです。また、1904年出版の小泉八雲が署した「怪談」は、妻のセツから聞いた松江をはじめとする日本各地に伝わる伝説、幽霊話などを再話し文学作品としたもので広く世界中で読まれています。
しかしながら、これらの話が実際に起こったことかどうかは現在のところ検証されておりません。また、すでにご承知のこととは存じますが、松平直正公が入国し初めて松江城天守に登った際のお話は「雲陽秘事記」にも記載されております。この「雲陽秘事記」は『歴史の書としてではなく、文学の書として扱うのが適当であり、そしてその文学の中でも近代小説の一ジャンルである<実録>としてとらえるべきであると考える』とされています。(松江市ふるさと文庫13「雲陽秘事記と松江藩の人々」)
以上のことから、事実関係が定かでないことに対し松江市として供養することはできないところであり、さらに政教分離の観点からも実施することはできません。
平成27年9月24日
松 浦 正 敬
開戦から半年後、昭和17年5月21日午後4時ごろ、市立運動場で行われた航空青少年隊の結成式を祝うため、艦上爆撃機(2人乗り)が二機編隊で松江市を飛来しています。その時、悲劇が起こります。突然、爆音とともに機体から火を噴きます。その機体に機上しているのは、岩国海軍航空隊の飛行隊長福島中佐と部下の国定大尉です。
運動場には、航空青少年隊をはじめたくさんの人がいたため、福島中佐は近くの宍道湖に機首を向け不時着を試みようとします。しかしながら、あちこちに漁船が見えたので瞬時に断念します。部下の国定大尉をパラシュートで脱出させた後、自らは操縦桿を握り続け、燃えさかる機体は、旋回しながら中佐もろとも湖畔北にある国屋町の山林に激突します。福島中佐、享年34歳でした。
事故は機密事項として発表されませんでしたが、部下の国定大尉の証言や中佐の妻、澄子さんの手記などから墜落の詳しい様子が語られています。燃えさかる機体の中で、被害を最小限に食い止めようとした姿や、脱出をためらう部下を救った行動など福島中佐の人となりを物語っている事柄が印象的です。
墜落現場には、当時の小泉梧郎・島根県知事の揮毫で「海軍中佐福島義男殉職之碑」と刻まれた高さ3mの石碑が建立され、横には遺骨の一部が納められた石碑「殉職之地」が建てられ、福島中佐は「軍神」として祀られます。しかしそれは時間の経過とともに忘れ去られ、いつしか石碑は里山の竹林の中で、自然と埋没してゆくのです。
軍用機事故から73年後の平成27年正月明け、完全に忘れ去られていた福島中佐の石碑が幸運にも発見されます。その発見者は、城西公民館の関係者で酒向さんという方です。酒向さんは趣味で、公民館の歴史資料に目を通しては、生来の歴史好きが高じて資料に記された場所に自ら赴いては調べ、見聞を広めていたそうです。
最初は福島中佐の石碑についての情報や噂を確かめるべく、いつもの歴史探訪の気分で出かけたそうです。しかし石碑の探索は想像以上に困難で、道なき道を生い茂る草木をかき分け、丸一日かけてようやくたどり着いたそうです。
それは山林の中で長い年月放置されていながら、土台は崩れることもなく、竹林の圧力にも屈服することもなく見事な状態で見つかったそうです。まるで誰かを待ちわびながら威風堂々とした佇まいに、酒向さんは大変感銘を受けたそうです。
さて、ここからが本題です。この「国のために殉職された」大先輩の慰霊碑を一体誰が管理すべきでしょうか?町でしょうか?市でしょうか?県でしょうか?自衛隊でしょうか?未だに答えが出ておりません。最近になって私個人も市と県に問い合わせてみたのですが、市は「公園のような公有地ならまだしも私有地に建てられたものは、市としては対応できない」という解答でした。県は「当時の県知事が個人的に関わったことで、県としては関わりがない」という解答でした。賛否両論あると思いますが、今後も自分のできるやり方で関わって、訴え続けて参ります。