祈りのパワースポット・松江

パワースポットとは、そこを訪れた人が感じる超自然的なエネルギーに満ち溢れた場所を言います。
基本的には役職を持った人が常駐しており、聖地としての尊厳が守られている場所です。
松江は全国から神様が集まり滞在する場所で、そこに点在するパワースポットの歴史と魅力を紹介します。
松江を癒しの空間として価値を高めるため、様々な企画を考案中です。

松江のパワースポット

美保神社

〒690-1501 島根県松江市美保関町美保関608
TEL:0852-73-0506
http://mihojinja.or.jp/

美保神社は全国3385社あるえびす様の総本宮。御祭神は三穂津姫命(みほつひめのみこと)と「えびす様」の別名で知られる事代主神(ことしろぬしのかみ)で、どちらの神様も音楽にゆかりが深く、たくさんの楽器が奉納されています。大社造りの社殿が2つ並ぶ本殿は「美保造り」と呼ばれ、国の重要文化財の指定も受けています。出雲大社の大国主大神は大黒様、美保神社のえびす様と合わせて「えびすだいこく両参り」と呼ばれ、両方合わせてお参りすることで、よりよい縁に恵まれると言われています。

神魂神社(大庭の大宮)

〒690-0033 島根県松江市大庭町563
TEL:0852-21-6379

美保神社は全国3385社あるえびす様の総本宮。御祭神は三穂津姫命(みほつひめのみこと)と「えびす様」の別名で知られる事代主神(ことしろぬしのかみ)で、どちらの神様も音楽にゆかりが深く、たくさんの楽器が奉納されています。大社造りの社殿が2つ並ぶ本殿は「美保造り」と呼ばれ、国の重要文化財の指定も受けています。出雲大社の大国主大神は大黒様、美保神社のえびす様と合わせて「えびすだいこく両参り」と呼ばれ、両方合わせてお参りすることで、よりよい縁に恵まれると言われています。

出雲国風土記の佐太神社

〒690-0331 島根県松江市鹿島町佐陀宮内73
TEL:0852-82-0668
http://sadajinjya.jp/

佐太神社は出雲國二ノ宮、古くは出雲国三大社の内の一つとして「佐陀大社」として称えられ、出雲国で最も古式を遺す神在祭(かみありさい)、ユネスコ無形文化遺産リストに登録されている「佐陀神能」等、古傳の祭祀を受ける御社です。大社造りの本殿が3つ並ぶ、三殿並立という全国的にも珍しい形式の社殿です。主祭神は佐太大神(さだのおおかみ)で、『出雲国風土記』には出雲国内四大神の一つと書かれ、別名猿田彦大神とも呼ばれています。

修験道の流れを汲む 松江市ゼロ磁場

松江市ゼロ磁場は、現在わかっている世界に四ヶ所あるうちの一つで国宝「松江城」から南西約2㎞の「陣賀山」と言われる場所にあります。

「陣賀山」は別名「幸魂山」または「重箱山」とも言われています。そこは海抜50mの里山で、450年前に山中鹿之助が末次城を築城して毛利元就と戦った古戦場跡で、死者の魂を祀るために「役行者尊」が設置された場所です。その後、この場所は「難病・奇病・悪病、あらゆる病気が治る場所または願いが叶い大往生できる場所」として江戸時代には、多くの人々にお参りされ大変賑わっていました。

しかしながら明治5年「修験道禁止令」が出されてからは、参拝者が逮捕されるため、誰も寄り付かなくなり寂れた場所となってしまいます。しかしそこから130年の時を経て、平成18年1月幸野大先達が夢のお告げから「松江市ゼロ磁場」を発見し、再び全国から多くの方々にお参りされるようになり、今日に至っています。

幸野大先達のお言葉を引用すると、松江市ゼロ磁場は「N極とS極の強い磁力が引っ張り合って安定していて、体と心を正常化するマイナスイオン(氣)が充満し、テラヘルツ波が多く降り注いでいる場所です。宇宙エネルギーが充満して自律神経に働きかけ、人体の分子と共振作用で細胞の新陳代謝を促進し、血液の流れを活発にします。30分いるだけで、ミトコンドリアが倍に増え、体の疲れが癒されます。空気中の酸素量が多く、特に溶解型酸素が多いので酸素カプセルに入るのと同じ効果が期待でき、呼吸しやすく免疫細胞が活性化する場所です。」ということだそうです。

松江市ゼロ磁場では、一般的な空気中の酸素濃度21%よりも濃い酸素濃度(約25%)であることが判明しました。しかも溶解型酸素が多いのが特長です!

結合型酸素

血液中のヘモクロビンと結びつく酸素なので、ヘモクロビンの量で運ばれる量が決まります。残った酸素は分子量が大きいため毛細血管を通り抜けることが出来ません。血管の約9割がヘモクロビンの分子よりも3割ほど細い毛細血管のため酸素が行き渡りません。

溶解型酸素

血液や体液に直接溶け込み、分子も大変小さく毛細血管を通る酸素で、ヘモクロビンの量には依存しません。つまり溶解型酸素を多く取り入れることが重要であると言われています。

直接お参りいただければ、詳しくご説明いただけます。または幸野大先達のブログ「松江市のゼロ磁場」をご参照ください。
松江市のゼロ磁場 – Goo ブログ https://blog.goo.ne.jp/xrnxj251

陣賀山にまつわる戦国ヒストリー

陣賀山は元亀(1570年〜1572年)のころ山中鹿之助幸盛と立原久綱が尼子復興の策源地として、末次城を築いた場所です。

主家再興の好機を狙っていた山中鹿之助幸盛と立原久綱は、永禄9年(1566年)11月毛利元就の軍勢によって富田城が陥落した後、各所に潜伏していた尼子の浪士を集め、尼子国久の遺児で京都東副寺の僧をしていた孫四郎を勝久と称し、これを主君にして但馬にくだります。

そこで垣尾麻守の支援を受けて、但馬の海賊船で永禄12年(1569年)5月隠岐に渡り、守護佐々木為清(隠岐為清)の協力を得て、6月23日出雲に入ります。そして三千余りの兵で新山城を陥れ、白鹿城を奪い返し、その勢いで陣賀山に城を構え尼子復興の策源地としました。

山中鹿之助幸盛(末次城)と毛利元就(荒隅城)の戦い

山中鹿之助幸盛と立原久綱は兵七千を出し、毛利を攻めますが、毛利は元亀元年(1570年)1月5日、兵六千と戦艦二百隻の援軍を送り込んできました。

1月12日毛利軍一万五千の兵と山中鹿之助幸盛七千の兵とで壮烈な死闘が、この陣賀山で繰り広げられますが、翌13日毛利軍が勝利しました。尼子軍は多くの勇士を失い新山城まで逃げますが、毛利軍七千の兵に襲撃され新山城は陥落しました。ここ陣賀山周辺は、当時の勇敢な勇士一万以上の御霊が今でも眠っていると言われています。