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思うこと 2025.08.26

核抑止論 2

戦後80年の熱量が冷めない内に思うがままに語っていきます。以前どこかの番組で見たのですが、終戦間際にナチスの傍若無人な残虐性を暴くために、一人の映画監督が軍に同行し取材を重ねていました。その中でユダヤ人強制収容所の解放シーンが流れた時、ガリガリにやせ細ったユダヤ人の男がこの監督に助けを求めてやって来ました。そしてこの監督は、不衛生でこのあまりにもみすぼらしい男の姿に、何とも言えない嫌悪感が生じて、男から遠ざかってしまったようです。その瞬間、監督の内部に激震が走ります。ナチスの横暴を暴露するために軍に同行していたのに、自分の中にもナチスがいることを、その瞬間はっきりと自覚したと言っています。私は監督のこの率直な感想を理解できるし、人間性の本質を上手く表現していると思っています。これを広島長崎の原爆に置き換えてみると、我々日本人は唯一の被爆国として、原爆の恐ろしさを世界に訴え続けています。しかしそれだけで足りるでしょうか?実際問題、原爆の被害者は例え生き残ったとしても、その後に待っている原爆後遺症に苦しみ、さらに就職活動や婚姻など多くの差別を日本中で受け、苦しみ続けて生きて来たのです。要するに我々日本人は唯一の被爆国として、被害者の立場から世界平和を訴える一方、実際の被爆者はこの被害者によって差別され続けるという矛盾が絶えず生じていたのですが、これこそが人間性の本質だと思っています。結局何が言いたいかというと、戦争というものを被害者と加害者と分断して考えようとするなら、恒久的な真の平和というものは決して訪れないということです。それだけ人間性というのは危うく、やばいものと私は考えています。もちろん愛や良心といった美しい心も人間の内部には確実に存在しているのですが、無秩序で不条理な状況に一旦陥ったならば、それらが全て狂気に変わることもあるのです。ですからもし人間性がこれ以上脱皮できないのであれば、持つリスクと持たざるリスクを考えた場合は、僅かに持たざるリスクの方が上回っているように感じています。次回に続く。

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