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ひとり言 2023.05.10

雑賀孫市

戦国最強の鉄砲傭兵集団「雑賀衆」、それは当時の戦国大名とは異なる特異な集団でした。そんな中で、伝説の鉄砲使い「雑賀孫市」が勇猛な偉人として最も有名です。実際に「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」言われ、大変恐れられていた存在でした。雑賀衆は紀伊半島の西部、現在の和歌山市を拠点にしていました。この地は農業には適してなかったのですが、紀伊半島の山々からは多くの鉱石や木材が採れたので、鍛治や林業などが発展していきます。また太平洋と瀬戸内海を結ぶ海運に適した土地だったので、漁業や貿易業も盛んに行われていました。こうした環境から山で働く人々、海で働く人々の組合が出来ていきます。それらの代表が相互協力し運営していた共同体が、雑賀衆の始まりだったのです。そして雑賀衆は、高野山を本山とする「真言宗」が武装した僧兵や古来からある神社「熊野三山」の熊野水軍などの多くの寺社勢力、もしくは宗教と深く関わってきました。そして戦国最強の傭兵家、雑賀孫市の家紋が「八咫烏(秘密結社)」だったのです。1585年の秀吉の紀州征伐で解体された雑賀衆の残党が、松江城の築城で有名な堀尾吉晴により、松江に迎えられます。雑賀衆の鉄砲隊の威力を熟知していた吉晴が、松江城の防衛に最強の鉄砲隊を思いついたことが理由だったそうです。そして雑賀衆の志は雑賀町の人々によって、今も受け継がれています。そして、この家紋の正体が今ゼロ磁場で、徐々に感じられるようになっています。

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