三島由紀夫 2022.12.06
精神的な仮面を付けて、今から告白します。三島由紀夫の壮絶な割腹劇の本質とは、三島さんの肉体に長年縛られ続けていた、「純粋無垢な愛(普遍的な愛)の解放」を表現した、言わば三島さん渾身の芸術作品だったのです。つまり、己の腹を引き裂き、己の首を介錯する目的には、まるで病原体の如く、己の肉体を蝕んでいる己の自我を切除し、それによって己の自己を消滅させるという外科的な行為の意味合いもあったのです。結局、究極的に高められた「自己愛」は、自己を失い純粋無垢な存在へと変貌し解放されていきました。ただ文学的三島由紀夫にとって、この行為とは文学世界の中だけに閉じ込められていた野生を、とことん解放したいという願望を、純粋に死をもって表現したというだけだったのです。しかしこの行為を傍から見れば、三島さんの究極的なマスターベーションに付き合わせれた感が半端なく、憤りを感じてしまうのです。しかし政治的三島由紀夫にとっては、この意味合いは全く違ったものになります。すなわちそれは、天皇を中心とした伝統社会を護るという崇高な大義を掲げて、武士の様式に則り、武士の最後の生き様を通して、天皇への忠誠を誓い、言わば己の誇りをかけた純粋な死の行為だったのです。つまりこれは、文学的三島由紀夫と政治的三島由紀夫を主要キャストに迎えて、全く異なるこの二つの人格を、死という概念を使って融合させようとした、言わば三島由紀夫最後の究極的作品に他ならないのです。つづく